「富士には月見草がよく似合ふ」と言った太宰治の富嶽百景は、絶景の富士山を仰ぐ御坂峠で生まれた。峠にある天下茶屋に、文学者として先輩格の井伏鱒二が後輩の太宰を呼び寄せ、2ヶ月ほど逗留した。御坂峠に着いた当初の太宰は、銭湯のペンキ絵と揶揄していたが、朝な夕なに見る富士山は、苦悩する太宰を少しずつ癒していった。寒さも増してきた11月のある日、元気を取り戻した太宰は、天下茶屋の店主とその娘に頭を下げて峠を降りて行った。その後の作品は、「走れメロス」をはじめとした明るい作品に変わっていった。
「私には誇るべきは何もない。才能もない。肉体よごれて、こころも貧しい。けれども苦悩だけは・・・苦悩だけは黙って受けていいくらい経てきた。たったそれだけ。藁ひとすじの自負である。けれどもわたしは、この藁ひとすじの自負だけは、はっきり持っていたいと思っている。」峠に逗留している作家、太宰治に地元の青年たちが面会にやって来る。青年たちに会ったときの心境を 述べたものだが「藁ひとすじの自負」は富士山に向かって咲く月見草と重なるものがあったと思える。