野麦街道は、昔から飛騨と信濃を結ぶ交易路である。野麦街道の最も難所が野麦峠である。山本茂美著「あゝ野麦峠」が映画化され一躍、有名になった。明治から大正時代にかけ、長野県の諏訪や岡谷を中心に製糸工業が広がった。
絹製品は飛ぶように売れ、欧米の婦人のドレスなどになった。当時の日本の貿易高の三割を製糸業で占めていた。その外貨は富国強兵政策のもと鉄や火薬になっていった。それを支えたのがうら若き乙女たちであった。十二、三歳になると飛騨の娘たちは高山に集まりおよそ150kmを5日かけて歩き続け、製糸工場を目指した。年に一度、正月しか帰れず、父や母や家族に会いに帰る雪の峠越えは大変な思いをしながらの強行軍だった。
野麦峠には肺をおかされ亡くなった「政井みねさん」の石像が立っている。100円工女と言われながらも無理がたたり肺病になったが、満足に医者にもかかれず、生まれ故郷の飛騨に向う途中、兄に背負われながらこの峠で息を引き取った。