丘の町「富良野」を一望できる峠が千望(せんぼう)峠である。富良野の地名は、アイヌ語のフラヌイ(臭う川)に拠ると言われている。東の大雪山連峰と、西の夕張連峰の間が富良野盆地で、南北に30kmと細長い地形である。小麦やジャガイモをはじめとして、様々な作物や果物が作られている。
明治4年(1871年)、明治政府の廃藩置県の令により全国で200万人いた武士の仕事がなくなり、わずかな退職の給付金が支払われた。自分の食い扶持は自分で稼がねばならなくなった。商売を始めるものや、手先の器用な者は物づくりを始めた。明治7年、西郷隆盛の発案で、蝦夷と呼ばれた当地の北方領土の警備と、肥沃な大地の開発を兼ねた屯田兵の制度が始まった。200人ぐらいを一隊として家族とともに移り住んだ。今のようにトラクターなど機械がない時代、原野を人力と馬による先人たちの汗と努力の開墾が現在の美しい地形を生み出した。士農工商の身分制度の解消にも貢献した屯田兵の制度は明治37年にその役目を終えた。